LOGIN鍵は、今の鷹宮邸には似合わない古さだった。真鍮の色はところどころくすみ、鈴の形をした飾りには細い傷がある。触れると、指先にかすかなざらつきが残った。
金属なのに、少し土の匂いがする。そう言うと変だろうかと思って黙っていると、征臣が先に口を開いた。「土の匂いがするか」「……します。今、言おうか迷っていました」「俺も、昔そう思った」 それだけの会話なのに、鍵が少しだけ証拠品ではなく、誰かが使っていた物に戻った気がした。「これは?」「昔の温室の鍵だ」 征臣はカフスに触れた。彼が困るときの癖だと、もう分かる。冷たい顔をしていても、指先だけがかすかに忙しくなる。「温室……」 言葉にした瞬間、湿った土の匂いが鼻の奥に浮いた。古い記憶は輪郭が曖昧で、色だけが強い。曇ったガラス。雨のあとに光る葉。誰かの荒い息。 私は鍵を箱に戻そうとして、うまく置けなかった。小さな鈴が、布の上で短く鳴る。 征臣が鍵征臣が視線だけを落とす。「ここで開けてもいいし、持ち帰ってもいい」「ここで確認したいです」 反射みたいに、すぐ答えていた。 逃げたくなかった。明日にしたら、眠れない夜が一つ増えるだけだ。 処置室の机を借り、封筒の端を切る。乾いた紙の音がした。 中には、母の短い手紙と、古いUSBメモリが入っていた。銀色の小さな本体に、青い糸が結ばれている。 手紙の一行目には、こうあった。 澪、これを読む頃、あなたが自分の名前で立っていますように。 その下に、USBの合言葉が書かれていた。 封筒の底から、さらに薄い紙が滑り落ちる。 拾い上げた瞬間、見出しの文字が目に入った。 告発状。 未提出の赤い判が、紙の上でやけに濃く見えた。出せなかったのではない。出す直前で止められた。そんな気配が、紙の端に残っていた。 未提出の告発状は、たった数枚だった。 けれど、紙面の余白がほとんど残っていない。日付、契約番号、送金額、受領者名。母の字は細く整っていて、怒りを押し込めた人の筆圧があった。 私は最初の行を読み、息を止めた。 白鳥家。 次の行。 東都商事。 さらに下。 有馬グループ関連会社。 母は、一つの家だけを見ていたのではなかった。 白鳥家の帳簿の不自然な穴。東都商事から迂回した資金。悠真の家が管理していた関連会社。点だと思っていたものが、紙の上で細い線になっていく。「有馬家まで……」 声に出したつもりはなかった。 征臣の視線が一度、告発状の端へ落ちた。口が開きかけたが、何も言わない。「知っていたんですか」「疑いはあった」「いつから」 問いが尖る。 征臣は逃げなかった。「白鳥家を調べ始めた頃には、東都商事から有馬側へ金が流れているのは見えていた」 征臣はそこで一度口を閉じ、机の上に両手を置いた。「ただ、君の母親の告発状までは確認できていなかった」
征臣は何も聞かず、黙ったまま薬を薄く伸ばした。その沈黙が助かるのか腹立たしいのか、自分でも分からなかった。 親指の腹が触れそうで触れない。必要なところだけ、綿棒の先で。丁寧すぎて、逆に痛い。「……そこまで気をつかわなくても」 思わず漏れた。 征臣が顔を上げる。「嫌なら、ここで止める」「嫌では……ないです。ただ、見られていると落ち着かなくて」 征臣は包帯を持ったまま一度目を伏せた。「では、手元だけ見る」 包帯が手の甲を一周する。白い布が煤の跡を隠していく。 許したわけではない。 ただ、包帯を巻く手は止まらなかった。 私は指を動かさずにいた。 ドアの外で、軽いノックがした。 港の診療所には似合わない、乾いた丁寧な音だった。「鷹宮様」 スタッフの声がする。 包帯の端を留める指に、肩が少し強張った。征臣は気づいていたのかもしれないが、問いたださなかった。「港湾管理事務所の書記官が、白鳥様へお渡ししたいものがあるそうです」 処置室のドアを開けると、廊下の端に小柄な男性が立っていた。 灰色の作業服に、古い革の鞄。髪には白いものが混じっている。港の事務所で長く紙を扱ってきた人の手だった。爪の間にインクの影が残っている。 男性は私を見ると、すぐに頭を下げた。「白鳥澪様でいらっしゃいますね」「はい。白鳥澪です」「港湾管理事務所の岸本と申します。遅くなりまして、申し訳ありません」 遅くなった。「遅くなった」という言葉だけが残った。私は封筒の角へ目を落とした。 岸本は革の鞄から、封筒を取り出した。茶色の角封筒。端が少し擦れ、封緘の糊は古く乾いている。けれど、破れてはいない。 表には、母の字があった。 白鳥澪へ。 その五文字を見た瞬間、足元のタイルの模様が遠くなった。 征臣が隣で動きかける。けれど、私の腕には触れなかった。「菜月様から、預かっておりま
倉庫を出ると、海風が濡れた髪を頬へ押しつけた。 指先の痛みは、外へ出た途端にはっきりした。火傷の跡に、床板で擦った新しい傷が重なっている。 征臣は救急用の冷却材を差し出した。受け取ろうとした指が震え、袋を落としかける。彼の手が動き、私の手前で止まった。 私は自分で袋を掴み直した。「さっき、君を先に出そうとした」 風に消えそうな声だった。「覚えています」「聞く前に、決めた」 征臣は冷却材の袋を見たまま言った。「……私も、危険を軽く見ました」 言ってから、すぐに許したように聞こえた気がして眉を寄せる。「でも、あれで済んだとは思っていません」「俺もだ。次は……先に聞く。止めるとしても、その前に」 少し不器用な言い直しだった。征臣は私の返事を急がず、冷却材の袋から手を離した。謝罪の続きを重ねなかったことだけは、少し助かった。 海風で冷却材の袋が鳴った。謝られたからといって、さっきの怒りが消えるほど器用ではない。私にも火へ手を伸ばした理由がある。彼にも止めた理由がある。そこまで考えて、疲れた。「診療所まで歩けます」「足元が悪い。車まで一緒に行く」 命令のように聞こえ、顔を上げると、征臣は続けた。「……嫌なら、警備を呼ぶ」 港の砕けた舗装へ目を落とす。「一緒に、お願いします」 彼は返事をせず、私の右側へ回った。先に腕を取らず、ガラス片のある場所だけで歩調を落とす。 診療所では、看護師が傷を洗い、深くないことを確認した。「軟膏を塗って、包帯を巻き直してください」 薬と包帯をワゴンへ置いたところで、看護師は運び込まれた作業員に呼ばれた。 処置室に残ったのは、私と征臣だけだった。 白い壁、金属のワゴン、消毒液の匂い。蛍光灯がステンレスの皿へ細く反射している。 私は煤の落ちた右手を見た。赤く擦れた皮膚と、古い火傷の跡が同じ場所にある。 征臣は薬箱へ目を向けたが、手を
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。 踏ん張る前に、強い腕が背中に回った。 抱きしめられたのだと気づくまで、少し時間がかかった。 征臣の胸元は、雨と煙と、いつもの冷たい香りが混じっていた。スーツの生地が硬く、腕の力は少しも整っていない。抱きしめ方を知らない人のように、ただ必死だった。「……無事で、よかった」 耳元の声が、かすれていた。 返事をしようとして、喉に煙が残っていることに気づく。咳が出る。 征臣の腕がすぐ緩んだ。「すまない」 彼は一歩離れた。 早すぎるくらいだった。 離れた途端、背中だけが急に寒くなった。「怪我は」「大丈夫です。……少なくとも、今は」 反射で答えたあと、指先がじんじん痛むことに気づいた。床板を押さえたとき、古い木片で擦ったのかもしれない。たいした傷ではない。 征臣の視線が私の手に落ちる。 触れようとして、また止まった。 止まるたびに、昨日の書斎が間に入る。「診療所に行く」「スタッフの方が先です」「手配している」 短い返事。 そのあと、彼は少し視線を外した。カフスに触れようとして、指が煤で黒くなっていることに気づいたようだった。いつもなら気にするはずなのに、今はそのまま握り込む。 手が、かすかに強張っていた。 私は、言葉を失った。 煤で強張った彼の指を見て、胸の奥が遅れて痛んだ。 何を恐れていたのか、聞かなくても分かる気がした。 そのことまで、なかったことにはしたくなかった。「今のは……悪かった」 彼が低く言った。抱きしめたことだと、すぐに分かった。「……驚きました」 征臣の顔がわずかにこわばった。「嫌だったわけではありません。ただ、今は……」 私は二人の間の濡れた地面へ視線を落とした。「少
奥の棚は、見た目より重かった。 錆びた金属の脚が床に張りつき、警備担当者が二人がかりで押しても、最初はびくともしない。煙は少しずつ低い位置まで降りてきて、膝のあたりを白く濁らせた。「番号を」 征臣が言った。 私は暗号帳を見た。母の字は細いのに、迷いがない。「三番棚を先に。違う、右じゃなくて左。床の傷に合わせてください」 声が大きく出た。 警備担当者が一瞬こちらを見て、すぐ動く。 征臣も棚に手をかけた。高価なスーツの袖が埃で汚れる。普段なら誰かが止めるのだろうが、今は誰も止めない。 金属が床を擦り、嫌な音を立てた。 その下から、古い取っ手が現れる。床と同じ色に塗られていて、知らなければ見落としてしまう。「これです」 私が膝をつくより早く、征臣が取っ手を掴んだ。「開けるぞ」 私は頷いた。「開けてください。私はここで図を見ます」 征臣が取っ手を引いた。 床板が跳ね上がる。下には狭い階段があった。暗く、湿った空気が上がってくる。 奥から咳き込む声が近づいた。「こっちです。声を出して。聞こえます」 私は階段の脇に立ち、暗号帳と見取り図を照らした。 ひとり、作業着の男性が出てくる。顔が煤で汚れ、腕を押さえていた。続いて、女性スタッフが肩を借りながら上がってくる。「まだ、奥に」 男性が咳の間に言った。 私は図を見直す。「奥の小部屋からここへ来るには、棚番号七の裏を通るはずです」 征臣が警備へ指示を出す。「七番棚、確認。無理に戻るな。煙が濃いなら床下から回れ」 その声は冷静だった。けれど、私を見る目だけが冷静ではない。 煙が喉に触れ、咳が出た。「澪」 いつもの低い声が、初めて大きく乱れた。 驚いて顔を上げる。 それでも、返事をする余裕はなかった。 でも、奥から最後のスタッフが這うように出てきた。 私は暗号帳を握ったまま、階段の端を指した。「そこ、段差
焦げ臭さは、数秒で油の燃える臭いに変わった。 倉庫の外で、金属を蹴るような音がした。誰かがシャッターを叩いている。 廃材を燃やしている程度ではない。 けれど、匂いはすぐに濃くなった。古い紙と油が混じった、喉の奥に貼りつく匂い。 征臣が顔を上げる。「外を確認しろ」 警備担当者が走った。次の瞬間、シャッターの向こうで金属を叩くような音がした。「火です。入口側に回っています」 声が硬い。 私はUSBを抜き、帳簿の写しを掴んだ。紅茶缶も鞄へ押し込む。手が少しもたついて、帳簿の縁が折れた。 征臣がこちらへ来る。「澪、先に出る」「待って」「待てない」 初めて、はっきり命令に近い声だった。 胸の底が冷えるより先に、倉庫の奥から小さな音が聞こえた。 人の声。 咳き込む声だった。「奥に誰かいます。置いていけません」「警備が行く。君は出ろ」 征臣の手が私の腕を掴んだ。 強い力だったが、私は見取り図を開いたまま動かなかった。 その一瞬に、私は母の帳簿を開いた。「母は、ここに一人で来ていました」「今はその話をしている場合じゃない」「一人で来ていたなら、出入口を一つだけにはしないはずです」 声が震えた。でも、紙をめくる指は止めなかった。 倉庫の見取り図。母の細い字。赤鉛筆の丸。 棚番号、床板、排水溝、非常扉。 全部が数字で書かれている。普通に見れば在庫管理の印にしか見えない。けれど、図案帳の針穴と同じ読み方をすれば、線になる。 征臣が短く息を吐いた。煙の向こうで目が合う。「その読み方でいくなら、次はどこだ」「ここです。母が、私に分かるように残してくれたなら」 シャッターの隙間から煙が入ってきた。目が少し痛む。 奥でまた咳がした。若い男性の声と、もう一人、女性の声。倉庫管理のスタッフかもしれない。 私は見取り図の端を押さえた。「裏口があります。そこなら出られます







